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芦屋釜とは

記事ID:0006949 更新日:2020年2月10日更新

芦屋釜とは
What's Ashiyagama

芦屋釜は、南北朝時代頃(14世紀半ば頃)から筑前国芦屋津金屋(ちくぜんのくにあしやつかなや)(現在の福岡県遠賀郡芦屋町中ノ浜付近)で造られた茶の湯釜です。「真形(しんなり)」とよばれる端整な形と、胴部に表される優美な文様は京の貴人達に好まれ、垂涎(すいぜん)の的となりました。その製作は江戸時代初期頃に途絶えますが、現代の茶席においても芦屋釜は主役を務める存在であり、大変珍重されています。
その芸術性、技術力に対する評価は今なお高く、国指定重要文化財の茶の湯釜9点の内、8点を芦屋釜が占めています。

重要文化財指定の芦屋釜

現在、芦屋釜は国指定重要文化財の茶の湯釜9点の内、8点を占めています。
それらは、全国の著名な博物館等に所蔵されていますが、ここに3点を紹介します。

重要文化財 芦屋浜松図真形釜 東京国立博物館蔵の写真

重要文化財 芦屋浜松図真形釜 東京国立博物館蔵
Image:TNM Image Archives

重要文化財 芦屋楓流水鶏図真形釜 九州国立博物館蔵の写真

重要文化財 芦屋楓流水鶏図真形釜 九州国立博物館蔵
画像提供:九州国立博物館 小平忠生氏撮影

重要文化財 芦屋霰地楓鹿図真形釜 細見美術館蔵の写真

重要文化財 芦屋霰地楓鹿図真形釜 細見美術館蔵

芦屋釜の特徴と歴史

芦屋釜の特徴(1)

形は、「真形(しんなり)」とよばれる形状です。

その特徴を部分的に記すと、 1. 口造りは繰口(口の立ち上り部分が湾曲した形)。2. 鐶付(かんつき)は原則として鬼面(きめん)。鬼面は竜首を思わせるような形状で、厳しい表情です。時代を経るにつれ、獅子面や亀など鬼面以外のものも現れます。3. 胴部に羽をめぐらします。羽は風炉に懸けるための部分です。古芦屋の多くは長年の使用で底が傷み別の底に入れ替えられていますが、その補修の際、羽を欠き落としたものもみられます。
なお、底の補修の際、別に造った一回り小さい底を釜の内側から接着したものがあり、その形状から「尾垂釜(おだれがま)」と称されます。

芦屋釜の特徴の画像

茶の湯釡部分名称

芦屋釜の特徴(2)

地肌は滑らかで、鯰の肌に似るので鯰肌(なまずはだ)とよばれます。

芦屋釜の特徴(3)

胴部に文様を表します。風景、動植物、幾何学文など様々な文様があります。また、霰(あられ)を地文とするものもあります。ごく稀に、寄進先や寄進年、作者名などを記した作品もみられます。

芦屋釜の特徴(4)

鋳型(いがた)の中子(なかご=中型)は挽き中子法という技法で造ります。このため、釜の内部に細かい線状の挽き目がみられるものがあります。挽き中子法は、芦屋鋳物師に伝わったとされる技法です。

芦屋釜の盛衰

芦屋釜製作の始まり(1)

芦屋釜の始まりはよくわかっていません。ただ、芦屋金屋が発生した時期は、梵鐘の銘文から14世紀半ば頃と考えられ、芦屋釜の製作開始もその時期を遡ることはないと考えられます。

15世紀初頭になると、芦屋釜の名が史料に散見されるようになります。応永17年(1410)の「如意庵校割帳(にょいあんこうわりちょう)」(『大徳寺文書』)には、「釜 一口 芦屋紋松櫻 付風炉 同銕輪」とあり、文様のある芦屋釜が寺の什物(じゅうもつ)となっていたことがわかります。それより遡る史料では、応永14年(1407)、博多円福寺の僧宗金が山科教言(やましなのりとき)に風炉・釜を斡旋(あっせん)していることや(『教言卿記(のりとききょうき)』)、同年、醍醐寺三宝院満済(だいごじさんぽういんまんさい)が宗像大宮司氏経(むなかただいぐうじうじつね)に釜の到着の遅れを催促していること(『宗像大社文書』)も、地域的・時期的にみて芦屋釜の可能性が高いと考えられます。

これらからみて、芦屋釜の製作の始まりは14世紀半ばから半世紀の間であるとみてよいでしょう。

芦屋釜需要の盛期(2)

15世紀の記録からみて、芦屋釜は醍醐寺領若宮荘など遠賀川流域の荘園からの貢納品として京に持ち込まれることが主要な流通ルートの一つでした。しかし、文明期(1469~1478)に至り、芦屋釜の名が記された史料が激増します。多くの芦屋釜が、山口に本拠を置いた守護大名大内氏やその関係者から、将軍家やその周辺の人々に献納品として進上されているのです。特に顕著な例として、文明13年(1481)には、大内政弘が足利義政、義尚(よしひさ)らに合わせて30口の釜を献納しており、さらに文明17年(1485)にも、大内政弘から足利義尚らへ30口の釜の献納がみられます(『蜷川親元日記』)。この「釜」は芦屋釜とみて間違いありません。15世紀後半は、大内氏を媒介とする京での需要の最盛期であったといえるでしょう。

芦屋釜需要の衰退(3)

16世紀になると、史料に芦屋釜の名はほとんどみられなくなります。茶の湯文化の主な荷い手も、京の公家・武家・寺社などの階層から、堺・奈良・京都の町衆らに移っていきます。彼らの一部は、天文年間(1532~1554)頃から茶会記を記しており、この頃の茶の湯に使われた道具類を知ることができます。その中には、多種多様な釜が記されているにも関わらず、「芦屋釜」という名は全く出てきません。中国から輸入された唐物道具の賞玩中心の茶の湯から、後の茶道に通じる日本的な「侘び」の茶の湯に移るにつれ、道具の好みもおのずから変わっていきます。さらに、京の三条釜座においても盛んに釜が造られるようになり、わざわざ遠方の芦屋にまで釜を求める必要がなくなったのです。芦屋釜の需要は大きく衰退することとなります。

芦屋鋳物の廃絶(4)

芦屋釜の需要は減ったものの、芦屋金屋では大内氏の庇護の下、梵鐘や鰐口などの製作を続けています。特に大内義隆(おおうちよしたか)と芦屋金屋の大工(棟梁)大江宣秀(おおえのぶひで)との関係は深く、大内氏が代々尊んできた興隆寺や今八幡宮への奉納品を造らせています。ところが芦屋鋳物師にとって大打撃となる事件が起きます。天文20年(1551)、義隆は家臣である陶隆房(すえたかふさ)の謀反により、大寧寺(山口県長門市)で自刃して果ててしまいます。隆房によって擁立された大内義長も、弘治3年(1557)、毛利元就(もうりもとなり)との戦いに敗れて自害します。芦屋鋳物師の絶大な庇護者であった大内氏は、ここに滅亡してしまうのです。

大内氏の配下として芦屋津を直接管理下においていたのは麻生氏です。大内氏滅亡後の永禄2年(1559)、豊後の大友義鎮(おおともよししげ)が豊前・筑前の守護職に任命されますが、それを契機とする大友軍の北上により、麻生氏も蹂躙(じゅうりん)され弱体化してしまいます。大内氏の滅亡と、その被官として直接芦屋津を掌握していた麻生氏の弱体化は、芦屋鋳物師にとって致命的な痛手でした。以後、慶長5年(1600)、高倉神社(遠賀郡岡垣町)に納められた鐘を最後に、芦屋鋳物師の作例はみられなくなります。彼らの一部は、博多に移り住んで鋳物業を続けたことが知られています。


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