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芦屋町の歴史4(明治時代~現代)

記事ID:0012385 更新日:2019年11月21日更新

明治時代

大国座模型の画像
大国座模型

栄華を極めた産炭地域の娯楽の場

明治33(1900)年、芦屋に大国座が建てられました。周辺では、筑豊の飯塚・養老館、直方・日若座に次ぐ古いものでした。筑豊は約一世紀の間、全国出炭量の約半分におよぶ石炭を産出し続けた日本最大の炭鉱地帯でした。その最盛期には35万もの人々が昼夜の別なく働いていました。宵越しの金は持たないことを誇った銭離れのいい坑夫とその家族たちの慰安ということで、劇場設立の動きが高まったのでした。芝居鑑賞は、事故防止、風紀上からも大変良いことだと鉱業主たちが勧めたのも劇場増加の原因となったようです。劇場は、炭坑夫やその家族たちの娯楽の場として欠かすことのできない存在となっていきました。そこにはまた都市文化とは異なった炭鉱地帯特有の芸能文化圏が形づくられて、地方文化に強い影響を与えていきました。

芦屋の土壌が育んだ大国座

筑豊に特別、劇場が多かった理由は炭鉱にあったわけですが、芦屋の大国座に関していえば、始めから炭坑夫や川ひらたの船頭たちを対象としていたものではなかったようです。芦屋には、炭鉱景気以前、古くから商業都市・貿易中継港として発展した歴史がありました。芦屋は、芦屋歌舞伎役者の伝統を持ち地方中核都市としての力を持っていたがゆえに娯楽装置としての劇場を持つに至ったようです。しかし、残念ながら、昭和19(1944)年3月12日夜、大国座は火災により全焼しました。昭和23(1948)年に再建されましたが、規模は小さくなりました。その後、昭和41(1966)年8月に、大国座は70年の歴史に終止符を打ちました。

大正時代

芦屋鉄道 西芦屋駅跡の画像
芦屋鉄道 西芦屋駅跡

芦屋鉄道

芦屋町では早くから遠賀川・折尾方面に通じる交通機関の設置が考えられ、町会でも取り上げられましたが、町として実現するには様々な困難がありました。幾多の困難を乗り越え、大正4(1915)年3月中旬、全軌道が完成しました。総工費は9万9741円でした。開通式が挙行されたのは4月12日で、翌13日から運転、営業を開始しました。芦屋鉄道の事務所は市場町光明寺の下に設置されました。機関車に連結する車輛は、平日は客車1車輛・貨車1輛でしたが、夏の海水浴の季節には客車2両編成で運転していました。旅客運賃は西芦屋から遠賀川駅まで大人片道15銭で、1日6往復でした。芦屋鉄道は創立当時から経営難でしたが、やはり経営不振で昭和6(1931)年10月27日に芦屋鉄道株式会社は解散しました。

芦屋鉄道の思い出

ある町民は、少年時代の思い出を次のように語っています。「一番印象に残っているのは、鬼津の若松の登り坂です。機関車の馬力が足りないのか、シュッシュッポッポと喘ぎながら登っていても、ときどき登り切れずに停まってしまい…遂には車掌が乗客に下車してもらって後押しを頼む。みんなで力を合わせてワッショイワッショイと汽車の後押しをして、やっと峠につくと客は汽車に乗る。…汽車賃を払って後押しした話は、今も笑い話です。」

昭和時代

戦争と芦屋

昭和17(1942)年、三里松原に陸軍の飛行場が建設されました。昭和20(1945)年には最新鋭の5式戦闘機48機、パイロット55人の戦力で北九州工業地帯の防空任務に着きましたが、戦力を温存したまま8月15日の終戦の日を迎えました。

戦後の芦屋

8月下旬、基地は米軍によって接収されます。町中には米軍の兵士の姿が目立つようになります。昭和25(1950)年からは朝鮮戦争の前線基地としての役割を持ちます。昭和28(1953)年、 板門店で休戦協定が結ばれると、芦屋基地の異様な活気はなくなりました。昭和35(1960)年に米軍は完全に撤退し、約15年続いた駐留は終わりを告げました。昭和36(1961)年2月、航空自衛隊芦屋基地が正式に開設され、現在に至っています。

現代

夏井ヶ浜はまゆう自生地の画像
夏井ヶ浜はまゆう自生地

歴史文化を守り、継承する。風土と文化に学ぶまちづくり

古くから産業、流通の拠点として栄えた芦屋町は、多くの歴史遺産や独自の伝統文化を持っています。これは、芦屋町とここで暮らす人々の誇りであり、原点となるものでもあります。私たちは、このまちの「誇り」を漠然と守り伝えていくのではなく、地域の中に息づかせていくことで、豊かな郷土をつくり、過去と現代の融合により新しい地域文化を創出し、これから芦屋町で暮らす人々へ新たな「誇り」として引き継ぎます。