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芦屋町の歴史3(江戸時代~幕末)

記事ID:0012384 更新日:2019年11月21日更新

江戸時代初期

安宅船「伊勢丸」(模型)

安宅船「伊勢丸」(模型)

藩御用の水軍基地

慶長5(1600)年、黒田長政は筑前に入封すると、交通の要地である芦屋津に多くの藩船をつなぎ、御船手の士(黒田水軍の水夫)を常駐させます。御船手屋敷があったのは現在の船頭町付近であったと思われます。戦国の風残るころ、長政は当時最強の船、安宅船(戦艦のようなもの)を作らせ「伊勢丸」と名付けています。この船は芦屋に置かれ、これを見た佐賀の領主、鍋島氏が「自藩でもこのような船を造るべし」と国元に送った手紙が現存しています。

芦屋津はさらに重要拠点に

以後も芦屋津は軍港として重要視され藩の軍船160艘の内80艘が芦屋津に置かれていました。福岡藩が水軍を重視したのは、寛永18(1641)年より、佐賀の鍋島氏と交代で長崎の警備に当たらなければならなかったことが理由の一つでした。幕末、黒船が長崎へ来た際も芦屋浦の水夫が徴用され、長崎へ送られています。

江戸時代中期

楽太鼓(芦屋役者が使用していたもの)

楽太鼓(芦屋役者が使用していたもの)

芦屋役者たち

芦屋役者の始まりは、時宗の念仏踊りです。念仏衆は、中世より金台寺下に住んでいましたが、慶長10(1605)年より祇園崎の千光院の寺中に移り、岡湊神社の配下となりました。次第に念仏衆は本来の姿を失っていき、芸能者となっていきました。嘉永元(1848)年の寺中町人口は284人、67軒でした。遠賀川流域以外に他藩へも出かけ旅興行していた芦屋役者でしたが、明治36(1903)年申し合わせを行い、各座一斉に解散します。一遍上人から数えて約700年、確実に資料に残っている所から約300年後のことでした。

各座一斉解散の理由とは

理由についてはいくつかあるようですが、職業的偏見がその理由の一つと昔から指摘されてきました。もう一つの理由は経済的なところだと考えられます。延亨元(1744)年 芦屋役者は、上方役者・豊前役者などと競合していました。芦屋役者は芦屋から他国の役者の排斥を求める願いを出し、藩はこれを認めています。地元芦屋で開かれる芝居ですら独占できず、藩の威光・権力に頼る事もあったようです。

江戸時代後期

漂着した陶器

漂着した陶器

芦屋「旅行商人(たびゆきしょうにん)」

旅行商人がいつごろどのようにして生まれたのか、残念ながらそれを物語る資料は残っていません。江戸時代の資料も不明としか伝えていません。文字として残る資料としては、元禄・宝永(1688~1710)のころから陶器を船に積んで交易に出かけたという記録(吉永家譜)があります。

全国に伊万里焼を売る

こうした「旅行商人」が最も盛んになったのは文政・天保年間(1818~1844)でした。芦屋・山鹿の舟はまず、生蝋やくり綿などの遠賀川筋の特産品を芦屋から伊万里へ運び、そこで伊万里焼を仕入れました。そして瀬戸内海を通り大坂へ、さらに山陰、北陸、遠くは蝦夷、松前(北海道)まで交易に出掛け「未踏の地なし」(出かけていかなかった場所はない)と言われるほどでした。

幕末

旅行商人関連資料

旅行商人関連資料

陶器組仲間

弘化3(1846)年の記録によると、旅行商人たちは「陶器組仲間」を作って結束していました。芦屋は関屋・掛屋など38人、山鹿は吉野屋・蛭子屋など27人、柏原は佐野屋、縄田屋など16人、その他有毛・脇田などを合計すると85人の名前が残っています。

当時の芦屋と旅行商人の衰退

当時の芦屋・山鹿には裕福な商屋がたくさん軒を連ねていました。最盛期には伊万里焼の3分の1を筑前の旅行商人があつかっていたほどでした。もともと個人経営で資本も巨大でなく、苦労の多かった「旅行」は他窯業地の成長、明治以降の国内交通網の整備などによって衰退し、明治末には「旅行」の名は歴史から消えていきました。