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芦屋町の歴史(2) 奈良・平安時代~室町時代

記事ID:0002383 更新日:2019年11月21日更新

奈良・平安時代

月軒遺跡出土瓦の画像
月軒遺跡出土瓦

古代日本の駅伝制
古代日本では、8世紀の初めには東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道の駅路を整備し、駅伝制を施行しました。令には、駅家は16キロメートル間隔に配置すること、20頭の駅馬を置くことなどが細かく記されていました。

七道のうちの西海道
七道のうちの西海道は、大宰府という特別の官庁を置いて九州全域の統括を行い、外交・国防上でも重要視されていたことなどが、他の諸道とは大きく性格を異にしていました。西海道は門司の杜崎から小倉の到津を通り、遠賀川(当時は「おおきな入江」と記されています)を渡って嶋門(しまど)の駅に至り、赤間へ抜け博多から大宰府に向かうルートでした。この嶋門の駅は、現在の遠賀町鬼津か島門のどこかだとみる説が有力です。

月軒の丘
芦屋競艇場に近い月軒の丘からは、古代の建物の礎石と、大宰府様式と呼ばれるかわらなどがたくさん出土しました。昭和54(1979)年の発掘調査で、弥生時代の住居の上に奈良時代から平安時代初期の大型の建築物があったことがわかりました。当時かわらを作るには先端技術を必要とし、公の建物にしか使われませんでした。渡船の手配をする駅の一部か、月軒(浜口)廃寺かのどちらかであろうとされています。なお、この丘には「月軒長者」の屋敷跡とする伝説も残っています。

鎌倉時代

銅製経筒の画像
銅製経筒

山鹿ノ家政と麻生氏の登場
文治元(1185)年、平家は亡び源氏の世となります。時代は貴族の世から武士の世へと完全に入れ替わります。筑前の守護には武藤資頼が命ぜられます。
山鹿荘の地頭には源頼朝の祈祷師で、成勝寺の執行一品房昌寛があたりました。昌寛から地頭職を譲られたのは宇都宮朝綱の子家政でした。家政は、治める地名を名乗る当時の風習にならい「山鹿ノ家政」となります。この名は子・時家、孫・家長と代々受け継がれていきます。また、時家の代に次男・資時が麻生の荘の分与を受け分家します。麻生氏の始まりです。

蒙古の襲来(元寇)
元寇時には、山鹿・麻生氏も陣に加わっています。この事件後の論功行賞の記録の中に麻生資時・資次の名前が見えます。元の脅威は去りますが、鎌倉幕府の威光は衰えます。

法輪寺の銅製経筒は鎌倉時代末期の遺物
鎌倉時代の遺物が芦屋に残っています。法輪寺(ほうりんじ)の銅製経筒です。山鹿元町の西北の小高い丘斜面に、禅宗の古刹法輪寺があります。昭和2(1927)年、寺の西の谷から銅製経筒が発見されました。鎌倉時代末期の徳治3(1308)年の銘があり、当時の信仰の風俗によって中に経典を入れて経塚などに収められたものと思われます。高さ約14センチメートルの筒に刻まれた銘文によると、「関東御曹司千寿御前(おんぞうしせんじゅごぜん)の百日忌の供養として妙法蓮華経を写して納めた」とあります。千寿御前とは、将軍・源頼家の子で非業の最後を遂げた千寿丸のことで、その母が宇都宮氏であったことからここで供養したのであろうと思われます。経筒は寺に保管され、県の文化財に指定されています。

室町時代

旧芦屋小学校跡復元模型の画像
旧芦屋小学校跡復元模型

活気に満ちた港町「芦屋」
室町幕府は、軍事的・経済的基盤が貧弱な政権で、地方への影響力も薄いものでした。ここ北部九州でも、周防の大内氏や豊後の大友氏などの守護大名が力を伸ばし、麻生氏のような小領主はその配下に組み込まれていきます。大内氏は、最盛期には周防、長門、豊前、筑前の守護で、古来より九州の表玄関であった博多もほぼ手中におき、その代官には麻生氏の同族の山鹿氏を置いていました。一方、農業生産力は全国的に向上し、人口も増え、商品経済は広がって芦屋などの港町は活気に満ちたものとなります。文化的にも今日の日本文化を代表するといえる能や生花・書院造りなどが現れ、洗練されていったのもこの時代です。

旧芦屋小跡地から巨大な石塁が出土
当時の芦屋をしのぶ資料として、「旧芦屋小学校跡遺跡」があります。旧芦屋小遺跡は、昭和46(1971)年の町役場建設に伴う砂取り工事に際して調査された遺跡です。校舎が建っていた砂丘の下から、東西に延びる巨大な石塁が見つかりました。長さが54.5メートル、石塁の高さが約3.50メートルありました。発掘で確認されたのは部分的なものでしたが、推定復元してみると約2970平方メートル・900坪という大きさになります。この遺跡では、青磁や白磁、備前・瀬戸などで生産された陶器などの製品も発見されました。これらの年代を調べると、室町時代中ごろ以降、15世紀から16世紀のものがほとんどでした。

延亨2(1745)年の文章「海雲山金台寺由緒(かいうんざんこんたいじゆいしょ)」に、金台寺の旧地についての記載がみられます。大意は、大破した状態にあった金台寺を、一段引き上げて造立したというものです。寺の建立は14世紀後半と思われます。遺跡から出土した遺物の年代もこれ以後のものがほとんどです。さらに石仏・五輪塔などが出土していることなどを考え合わせると、巨大な石塁に囲まれた遺跡は金台寺の旧地ではないかと考えられます。さらに遺物の下限が16世紀ごろであることも、大破した寺を再建した時期と一致しています。寺の移転により、旧金台寺は中世芦屋の繁栄と共に厚い砂の中に忘れられていったのでしょう。


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