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芦屋町の歴史1(化石の時代~古墳時代)

記事ID:0012382 更新日:2019年11月21日更新

化石の時代

アシヤキララガイ化石の画像
アシヤキララガイ化石

波かけの岸は化石でいっぱい

山鹿の波かけの岸から岩屋にかけての海岸線は岩場の続く景勝地で、一部を除きほとんどが玄海国定公園に指定されています。この岩の層は、今から3000万年前のものです。地質用語では漸新世古第3紀末の代表的な地層で、「芦屋層群」と命名されています。

どんな環境だったの?

この地層では、いろいろな化石が発見されています。いま見つかっているところでは、二枚貝、巻貝、カニなど浅い海に住む生物たちでした。この他、水巻や中間の芦屋層群でも大型の飛べない鳥、プロトプテルムが見つかっています。日本名では一般にペンギンモドキと呼ばれています。鵜とペンギンが混ざったような姿で、体長は1メートル以上にもなります。

芦屋で発見!!

発掘された化石には、芦屋で初めて発見されたためアシヤの名を冠するものがあります。二枚貝のアシヤニシキ、アシヤフミガイ、アシヤハマグリ、アシヤキララガイなどや、巻貝のアシヤキリガイダマシ、アシヤタマガイ、ウニ類のアシヤブンブクなどです。

縄文時代

山鹿貝塚出土人骨の画像
山鹿貝塚出土人骨

学会が注目した発掘調査の成果

山鹿田屋地区にある山鹿貝塚は、昭和40(1965)年に学術発掘がおこなわれました。その成果は翌年学会で発表され、注目を浴びました。

大量に出土した縄文時代のアクセサリー

山鹿貝塚で縄文人が活動していたのは、縄文早期から晩期にかけての約6000年間だったことが土器の分析から分かっています。これまでに出土した人骨は、18体以上を数えます。葬られた時期はいずれもおよそ3500年前と推定されます。学者のなかには、「この貝塚ほど、縄文時代のアクセサリーの付け方と性との関係をはっきりと伝えてくれる例はない。」と断言している学者もいます。18体の出土人骨は、男8人、女7人、乳幼児3人の構成でした。そのなかで装身具を身につけていたのは、男性が2人、女性が7人全員と、山鹿貝塚では女性の方が装身具を多く身につけていたと考えられます。

縄文時代の女性の装飾品

特に注目すべきは、サメの歯のイヤリング2個、緑色大珠1個、貝(タマキガイ)の腕輪19個を付け、鹿角2本を添えて葬られた女性です。発掘の報告者は、大珠を持った女性は占い師兼女族長であったとしています。他の女性も全員貝の腕輪をはめ、耳飾り、足飾りをつけている人もいました。

弥生時代

弥生土器の画像
弥生土器

芦屋の弥生土器

芦屋町では、山鹿の夏井ヶ浜遺跡から遠賀川式土器や、最後の縄文土器とも最古の弥生土器ともいわれる夜臼(ゆうす)式土器が出土しています。このことは、最古段階の弥生人が芦屋にいたという証明になります。米を作り、米を主食とした生活は、それ以後2000年余にわたって日本人の食生活の基本となり、現代に及んでいます。弥生文化は、現代日本文化の根幹をつくってきたといえるでしょう。

芦屋の町名のいわれ

豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)という、日本の古い美しい呼び名があります。あしが生い茂り、みずみずしい稲の穂が豊かに実る国という意味です。河川改修で近ごろはすっかり見られなくなりましたが、かつて遠賀川の岸は何キロメートルも続くあし原でした。芦屋という町名も、あしで屋根をふく家が建っているところという意味のようです。とうとうと流れる遠賀川の両岸や夏井ヶ浜の海岸線は、日本の原風景といえるかもしれません。

古墳時代

大塚古墳石室(復元)の画像
大塚古墳石室(復元)

芦屋町の古墳時代の遺跡

芦屋町に古墳時代の遺跡は多くありません。平地部分はまだ海面下、陸地は稲作にあわない砂丘ばかりで人が住みにくかったからです。古墳としては、山鹿の夏井ヶ浜で箱式石棺が発見され、鉄剣や工具類が出土しています。

大塚古墳

芦屋側では、現在航空自衛隊芦屋基地となっている場所に、5世紀後半のものと思われる古墳がありました。「大塚」と呼ばれ、南北22メートル、高さ6メートルで円墳としては大型のものでした。昭和18(1943)年に陸軍飛行場建設工事のため取り壊されましたが、その横穴式石室の部分は現在の芦屋町役場東側の丘に移築・復元されています。当時発掘された装身具、武具、円筒はにわなどは、芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)に展示しています。葬られた人は、古墳時代後期にこの地方を支配した岡県主(おかのあがたぬし)の一族だったのではないかと考えられています。

『日本書紀』では

『日本書紀』(8世紀に編集)には、仲哀天皇と神功皇后が九州征伐にやって来られたときに、岡地方の豪族であった熊鰐(くまわに)という人が舟で出迎え、服属を誓ったということが書かれています。この熊鰐が岡県主の祖先であるとも述べられています。